北原白秋〜桐の花

私が昔働いていた会社のお友達が作ってくれている同人誌。そこに、今回載っていたエッセイで、北原白秋の桐の花が取り上げられていた。

北原白秋といえば、私が思い浮かぶイメージは、“からたちの花”とか“ペチカ”“待ちぼうけ”みたいな童謡の歌詞のイメージ。そんなに詳しく彼の人生とか彼の詩や歌について読んだこともなかった。詩について、そんなに詳しく知ってるわけでもなくて。
そこで紹介されていた歌がとっても印象的な詩だった。こんな感じの歌を書く人だったんだなあ。

君かへす朝の舗石さくさくと  雪よ林檎の香のごとくふれ

この歌を書いた頃の白秋は、まだ20代。隣家の女性と恋に落ちたんだけれど、その女性は、別居中とはいえ人妻だった。その彼女と一夜をともにして、朝彼女が帰っていく時に詠んだ歌。ちょうどこの前みたいに、東京は雪だったんだなあ。その雪をふみしめて、彼女は家に帰っていったんだ。情景が目に浮かぶような、ちょっとドキドキするような素敵な歌。こんな歌を書いていたのね。
ネットの青空文庫に、北原白秋の歌集がないかな?と思って探してみたら、歌集の方はなくて、でも、桐の花の巻頭に載っている、“桐の花とカステラ”というタイトルのエッセイが収録されていた。

桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛(フルート)の哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店(レストラント)の階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象、実際触(さは)つて見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうに滑(すべ)つこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。

私の哀しい Nostalgia がまた一絃の古琴にたまたま微かな月光の如くつかずはなれず付纏ふ時に、ある若い人達の集団はこれを唯一の楽器として、行住座臥、凡ての清新な情緒(センチメント)と凡ての苦い神経の悦楽とを委ねて満足してゐる。新人の悲哀は古い詠嘆の絃にのぼせて象徴の世界を観照すべくあまりに複雑であり、深刻であり、而((し))かも而かも傷ましいほど痛烈である、わが友よ、古い楽器の悲哀を知れ。さうしてその幽かな哀調の色に執し過ぎて些かだにその至醇なる謙譲の美徳を傷つくるな。

文章がすごく美しいなあ、、としみじみ思った。ちょっとした外来語も積極的に取り入れていて、それがまた文章をおしゃれな感じにしているし。
なんだか、よく知ってるつもりの人を、全然知らないまま通り過ぎてるかも、、とちょっと思ってしまった。昔国語の教科書で習ったような人の文章も、著作権が切れて青空文庫にアップされてるものも多いし、あれこれ読み返してみるのも面白いかも、と思った。
ちなみに、この桐の花の歌を書いていた頃の白秋。恋に落ちた隣家の人妻松下俊子の夫に姦通罪で訴えられ、市ヶ谷に収監されたとか。いろいろ大変だったのねえ、、。示談が成立した後、俊子と無事に結婚したのに、いろいろあって1年たたないうちに離婚しちゃったらしい。う〜む。人生って、恋愛ってそんなものかも、、。