帰省日記〜15日、大阪から東京へ戻る

15日、終戦記念日の日は、私が東京へ戻る日。お昼ご飯を一緒に食べて、その後、午後2時過ぎの新幹線で東京へ戻ってきた。

母が、昼ご飯にサンドイッチを作ってほしいというので、サンドイッチを作って一緒に食べた。父の分と三人分。パンも残り物、具も冷蔵庫の中を適当にあさって、ごくごく普通のサンドイッチを作った。卵サンド、ハムサンド、ツナサンドの三種類。wowowでやってるドラマ“パンとスープとネコ日和”を見ていて、自分もとてもサンドイッチが作りたかったので、ちょうど渡りに船な感じの母のリクエストだった。でも、自分で食べるのなら、いろいろ番組のをまねっこして実験的なのを作るんだけどな。母のリクエストで両親と一緒に食べるとなると、自分的定番サンドになっちゃった。本当は、オムレツサンドとか、ほうれん草&スクランブルエッグのサンドとかいろいろ試してみたいのがあったんだけど。ま、でも年寄りには定番サンドがちょうどよかったみたい。
母はとっても気に入ってくれて、余ったサンドイッチを、友達に持って行ってあげるというので、それだけは勘弁してくれとお願いしておいた。だって、パンだって一日前の安い食パンだし。具も、定番中の定番。自分たちで食べるにはいいけど、人にあげるほどのもんではないでしょ、、。母はちょっと残念そうに、自分の明日の朝ご飯にすると言ってた。
15日は終戦記念日だからか、前夜からずっと、母が終戦直後の思い出話をしてくれた。父も時々、やはり昭和20年の8月の思い出話をしていた。つい最近の事は覚えられなかったりわからなかったりするみたいなのに、昔の事はよく覚えてるもんなんだなあ。父は、8月16日に広島に行き、あまりの焼け野原に呆然となったらしい。もともと父は広島の倉橋島という島出身なんだけれど、終戦当時は池田中学(今の、大阪教育大学付属池田中学)の寮で暮らしていて、15日に終戦になり、一度実家に戻るために広島に行ってみたら、原爆が落ちて街はひどい惨状だったようだ。そんな、原爆投下10日後に広島をうろうろしていたってことは、父も被爆していたんだろうなあ、、なんて話していた。10日後だから影響はそれほどなかったと思うけれど。
工場に動員されていた父の学友とも再会できたらしいけど、工場内で、反対方向に逃げた人は全員亡くなった、、とか。とっさに逃げた方向で、生死が分かれたって話していた。人の運命ってわからないもんだよね。
母は、終戦当時北京にいたらしい。その日までは、祖父が北京の駐在員だったので、それなりに良い暮らしをしていたみたいで、終戦直前まで食糧難もなく、シュークリームやチョコレートも普通にあったとか。内地より物資は豊富だったみたい。それが、終戦になって一転、収容所に入れられ、日本に帰還する船が出る3月まで、とても言葉では表せないくらいつらい思いをしたんだとか。中国から引き揚げてくる時の話って、私がだいぶん大人になるまで全然してくれなかった。母にとっては、思い出したくないようなつらい思い出だったみたいだ。でも、年取って、今はすごくその頃の事を思い出すし、私にもそんな話をする気持ちになってきたようだ。「やっぱり戦争はやめといた方がいいよねえ。」なんてしみじみ言ってた。
14日の夜から15日の昼まで、終戦記念日の式典などを見ながら、断続的にそんな思い出話をいろいろ聞いていた。そういう時間も、両親にとってはそれなりに良い時間だったみたい。父にしても、うまく言えないものの、自分で思ってることを、古い思い出話にしろ、整理して話すってことはちょっとした頭のリハビリになったのではないかなあ、、なんて思った。昼間はそこそこまともに話せたりするんだけどねえ。夜になるとちょっと変だったりするのは、困ったところだ。
そうこうするうちに、帰る時間も近づいて、実家を後にした。15日だとまだ帰省ラッシュ、それほどでも無いかなあと思っていたけど甘かった。新大阪駅はなんだか人がいっぱいで、お土産売り場もなんだか殺気立っていた。新幹線も、もちろん満席。騒がしいからiPodで耳をふさいでひたすら我慢。まあお休みの新幹線がうるさいのはある程度しょうがない。iPodは必須。
東京駅に着いたら、なんだか涼しくてびっくり。やっぱり大阪とは暑さが違う感じ。涼しい風も吹いてるし。家に帰ったら、一足先に帰った旦那が、シーツなど寝具一式洗って干しておいてくれたので、気持ちいい〜。掃除もしてくれていて、感動。ありがとう!

で、旦那が阪神で買っておいてくれた鴨肉をスライスして鴨鍋の晩ご飯。

夏のさなかに鴨鍋!でもこれがすご〜く美味しかったりするのだ。はあ、、お盆の帰省は疲れる。でも、これはしないわけにはいかないから。帰省できるうちが花かな、、という気もするしね。