日本の中のミャンマーを知る週末~12日(金)から14日(日)

12日金曜日。朝御飯はバゲット

駅に向かう通勤路の八重桜がちょうど見頃だ。

職場は新緑の緑がきれい。

チューリップもきれいに咲いてる。

12日金曜日のお昼は、グリーンスペインのパエリア弁当だった。4月になっても無事に買うことができた。撤退しないでくれて本当に助かった。嬉しい。

実は、一番職場の部屋から近い売り場の日が、5日の金曜日だったんだけど、その日は学会に行っていたのでお昼を買いに来れなかった。

グリーンスペインの方に、「先週はどうされたんですか?来られなかったから、、。」って質問されちゃった。そうだよね。4月の1週目にいないと、退職したか異動したか、、って思われるよね。今年も無事にパエリアを買い続ける事ができそうな私自身の立場も嬉しい。ありがたい事だと思う。

金曜日は焼き肉。副菜とエゴマの葉、タレ。

キムチはワケギのキムチと桔梗の根のキムチ。どちらも韓国食品店で買ってきたもの。ちょうど焼き肉の箸休めにあうんだよね。

ハラミと甘唐辛子。

牛タンと椎茸と唐辛子。

ハラミと椎茸と細いグリーンアスパラ。

そんなのを焼いてがっつりいただいた。あ~。やっぱり焼き肉はなんだか元気が出るね。

13日土曜日。朝御飯はバゲット

いただきもののネモフィラもきれいだ。春らしくていいなあ。

マンションの花壇もいろんな花が咲いてくれて嬉しい。やっぱり春はいいね。

13日は義父の月命日なので、供養の護摩木を焚いていただきに深川不動堂へ。

なんだか亀と鯉の供養の日だったみたい。

こちらは足腰の息災を願うわらじ守りらしい。わらじのお守りの絵馬に願いを書いて、この大きなわらじに掛けて願掛けするらしい。私もお願いしておかないと、、かな。

その後、自転車でぶらっと残ってる桜を見に行ってみた。木場公園にはまだ散り残ってる桜が咲いていた。

まだ残ってる桜の下で、まだ賑わっている木場公園。やっぱりみんな桜が好きだよね。

私たちはFarm to Meでパンを購入。

ヨーカドーに立ち寄ったらトルコフェスティバルをやっていて、結構力が入っていた。大使館関係者もやってきて、いろんな売り場でトルコ関係のものを売っていた。まあ、円安の今、同じく通貨が安くなっちゃってるトルコくらいしかお買い得なものってないかもだよねえ、、。

トルコのお守り、災いをはねのける、という青い目玉?みたいなキーホルダーをひとつ購入して、家の鍵につけてみた。災厄から守ってくれるといいなあ。

お昼は、Farm to Meの、ベーコンとチーズのパンを半分こ。まだ温かくて美味しかった。

お昼休憩のあと、また散歩に出かけた。

大横川沿いの桜、まだきれいに咲いてるなあ。

そんな桜を眺めつつお散歩。

目的地は、いつもの田口屋さん。ビールが美味しい季節になった。

2杯目。旦那は焼酎ソーダ、私はシャインマスカットのお酒。

田口屋さんの女将さんに先日先々代の写真の入った昔の記事を差し上げたから、古い昔の写真を見せてくださった。関東大震災からそんなに経たない頃に再建した仮店舗。まだまだ再建途中の街で、仮店舗を急いで作った苦労なんかがあったんだろうなあ。

そして、昭和3年には立派な店舗を再建し、地元の大きな酒屋さんとして業界を支える存在だったみたい。その頃の写真も見せてくださった。せっかくこうやって再建したお店も、空襲で丸焼けになっちゃったんだよねえ、、。本当に大変だっただろうね。

そんな話をした後、またのんびり桜を眺めつつ散歩しながら帰宅。

散り際の桜もきれいだよね。

Eye love youでテオ君が住んでいた設定の建物の前では、今でも写真を撮ってる女性が多いね。その近所の牡丹園をのぞきにいった。

牡丹の花はとても華やかだ。

みんな花を眺めつつお散歩していた。

家に帰って晩ご飯。銀鱈の切り落としの西京漬け。それと鮭の切り落とし。見た目は今ひとつだけど味はとっても美味しかった。

それと、肉の旭屋さんのシュウマイ。

ホワイトアスパラの瓶詰めをあけてサラダにした。昔はホワイトアスパラって瓶詰めとか缶詰しかなかったよなあ、、としみじみ思い出す。

それにお味噌汁。

14日日曜日。朝御飯はFarm to Meの高加水パン。やっぱり美味しいね。このパンだったら、年取って歯が悪くなっても食べられそうだ。

いつも通り、日曜日の朝一番のジムへ。運動してお風呂&サウナでリフレッシュして家に戻った。

ジムにいるとまた母から電話があった。

家の電話に出たら、「今日はエコキュートの契約をするお約束をしているので、そのご訪問の確認のため電話しました。」とかかってきたそうだ。もちろんそんな約束はしていない。また詐欺か押し売りの電話だね。

母は「そんな約束した覚えない。どこかよその家と間違えてると思います。調べ直してください。うちじゃありませんから。」と言うと。

「あなたじゃなくて、ご主人と約束したんです。今日ご訪問するってご主人と約束しました。」なんて言われたらしい。

主人って、、とっくに死んでいないんだけど!と思った母だけど。一人暮らしである事を絶対に悟られないように、と兄からもキツく言われてるので。

「主人がそんな約束するわけありません。とにかくうちじゃないです!!」と言って、最終的にはガチャ切りしたらしい。

でも気味悪いし腹が立つし、どうにも気持ちがおさまらなくて私に電話してきたみたい。私に一通り話したら、少し落ち着いたみたいだけど。まったく。休日にはろくな電話がかかってこないね。母には、家の電話に知らない番号からかかってきても絶対電話に出るな、と言っておいた。、、でも大丈夫かなあ。どんどん詐欺や押し売りの手口が巧妙になってるからなあ。心配だ。

そんな母との会話を終えて、一旦帰宅した。

そして、自転車で木場公園へ。木場公園に着くと、すでに民族衣装の方達をあちこちで見かける。

ここは日本なの?東京なの??というくらい、周りから聞こえてくるのはミャンマーの言葉。木場公園で、ミャンマーのお正月を祝う催しが行われていたのだ。

アウンサンスーチー氏の写真もあるって事は反体制派が主催してるのかな?それにしてもものすごい賑わい。しかも本当にミャンマー人だらけ。

いろんな注意書きもミャンマー語。日本語も書かれてるけど、ほとんどミャンマー語

なんか食べてみたいと思ったけど。どの屋台も食べ物の屋台はものすご~い行列。

ちょっとこの行列に並ぶのは無理だなあ、、と思いつつ。長く続く行列を眺める。屋台のメニューはミャンマー語のみで、どんな料理なのかよくわからないけど、なんとなくタイやベトナム料理に近い感じがした。

それにしても東京にこれだけたくさんのミャンマー人がいるのは驚きだ。この人達がずいぶん私たちの生活を支えてくれてるんだなあ、、としみじみ思う。

食べ物の屋台はあきらめて、タマリンドジュースを飲んでみた。なんだか懐かしいタイの味がした。ここで円は使えるの??と思うくらい、ミャンマーの人ばっかりだった。

どうやらミャンマーの人気バンド?が出演していたみたい。なかなかの人気。

ここだけミャンマーだ、と思う空間にちょっとだけ行けて本当に楽しかった。ちょっとしたプチ海外旅行気分を味わえた。

せっかくなので、可愛い黄色の花のレイを買って帰ってきた。家に戻ってきて部屋に飾ってみた。可愛いよね。ミャンマーのシンボルのような花らしい。パダウという名前の花だそうだ。

木場公園の後、自転車で高橋ののらクロード商店街にも立ち寄った。そこでもプチお祭りが開催されていた。

ミャンマーのお祭りに比べるとだいぶん小規模だけど、商店街もなんとか頑張ってるなあ、、と思う。

日曜日の晩ご飯は、ビビンパ。ほうれん草と人参と豆モヤシのナムルをたっぷり作って、焼き肉と一緒に盛り付けた。ビビンパは美味しいなあ。

それとタラのムニエルに、銀鱈の西京漬け焼き、それとパクチーサラダ。

 

旦那が買ってくれたこんな本を読み始めてる。

「小山さん」と呼ばれたホームレスの女性が遺したノートを、ワークショップのメンバーが文字起こしして出版した本。

内容はこんな感じ。

時間の許される限り、私は私自身でありたいーー2013年に亡くなるまで公園で暮らし、膨大な文章を書きつづっていた小山さん。町を歩いて出会う物たち、喫茶店でノートを広げ書く時間、そして、頭のなかの思考や空想。満足していたわけではなくても、小山さんは生きるためにここにいた。

80冊を超えるノートからの抜粋とともに、手書きのノートを8年かけて「文字起こし」したワークショップメンバーによるそれぞれのエッセイも収録。

【小山さんのノートより】
働きに行きたくない。仕事がかみあわない。もう誰にも言えない。私は私なりに精いっぱい生きた。(…)私にとって、大事なものは皆、無価値になって押し流されていく。(1991年11月7日)

雨がやんでいたのに、またふってくる。もどろうか。もどるまい。黄色のカサが一本、公園のごみ捨て場に置いてあった。ぬれずにすんだ。ありがとう。今日の光のようだ。(2001年3月18日)

駅近くに、百円ちょうど落ちていた。うれしい。内面で叫ぶ。八十円のコーヒーで二、三時間の夜の時間を保つことができる。ありがとう。イスにすわっていると、痛みがない。ノート、音楽と共にやりきれない淋しさを忘れている。(2001年5月7〜8日)

小山さんノート。読んでてだんだん辛くなってくる。気持ちが暗くなってしまう。でもなかなかやめられない。

小山さんは私より14歳年上だ。2013年に65歳で亡くなっている。10代で家を出て東京に出てきたのち、文学や芸術を志していたみたい。ファッションも好きだったみたいだ。40代頃から貧しく、生活が苦しくなりその後ホームレスになったみたいなんだけど。彼女は書きためた80冊以上のノートを最期の時まで大切に持っていたみたいだ。

書くことで心の平衡を保っていたんだろうなあ。

ホームレスになってからの生活のところで。並び屋のアルバイトの仕事がちょこちょこ出てくる。何の行列かはわからないけど、何かの発売日に早朝から並ぶことで少しお金をもらっていたみたいだ。転売屋を肯定する気持ちにはならないけど、行列に並ぶことで糊口を凌ぐ人がいるんだなあ、、という事には気づかされた。

あと、案外街中に100円玉とか落ちてるものなのね、、というのも意外だった。私もお金を落としちゃった事はあるけど、こういう人に拾われて少しでも役に立つならそれも良かったのかな、、なんて思ったり。

それにしても、このノートの内容はなかなかに過酷だ。元気がないと読めないね。でもなんだか惹かれる文章だ。