義父の他界とお別れ~13日(土)から16日(火)

13日の土曜日。なんだか前夜、なかなか眠れなくて。それは旦那も同じだったようで。ベッドでぐるぐる何度も寝返り。でも寝つけない。タブレットを取り出して読んだり、なんだかんだ夜更かししてしまったし、ちょっと眠っては目覚める、という感じだった。

そのせいもあって、土曜日の朝は寝坊してしまった。いつもだったら、目覚ましが無くても7時頃には起きるんだけど、8時まで寝てしまっていた。

8時に起きてリビングに行くと、携帯が鳴ったのでビックリ。慌てて出ると義妹からの電話だった。「お姉さん、メール見てくれました?」と言われて、「ごめん、今起きたの、、。」と言うと、「お父さん、今朝亡くなりました。」と、義妹の言葉に本当にビックリした。

実は、前日の金曜日。ちょうど義弟夫婦が、義父のお見舞いに行ってくれていた。その話を前日の夜に聞いていた。

「お父さんの様子、安定してるみたいだったよ。」と聞いていたので。まさかそこから早朝にそんなに状況が一変するとは。驚いた。

そこから大慌てで帰省の準備をした。まあ、先日一度帰省していて、荷物はある程度まとめてあったので、そんなに大変じゃなかったけど、でも気分がどうにも落ち着かないし、なんだかいろいろ複雑な気持ちで。それに、旦那の体調もあまり良くなくて、心配ではあった。でも帰らないわけにいかないしね。

こんな時、やっぱりJRのEXアプリは便利だ。すぐにスマホで席並びまで確認して、席を予約した。そして、タクシーで東京駅へ。

新幹線に乗って、一路大阪へ。その間にも、あれこれ義弟や義妹とメッセージを送り合ったり、電話するなど連絡をとりあった。

先日大阪に帰った時に、ある程度、お葬式の事や、連絡する人の事などについて話していたので、そのあたりはスムーズに進んでよかった。

私たちは、そのまま、葬儀社の遺体安置してくれている場所へ向かった。

義父は、とてもきれいな顔で、なんだか眠ってるようだった。

義弟夫婦と合流し、またいろいろ話して、菩提寺のご住職に電話連絡して葬儀の件をお願いしたりしている間に、納棺式の時間となった。

実は、私が以前、ひとりで義父のマンションに行って一緒にご飯を食べた時に、義父から「もし亡くなった時にはこれを着せてほしい。」「お棺にはこれを一緒にいれてほしい。」というものを見せてもらって、それをひとまとめにした風呂敷包みの置き場所を聞かされていた。

その風呂敷包みは、その前に帰省したタイミングで義弟に預けてあったので。ちゃんと納棺の時に掛けてくれていたし、最後のお別れの時に棺にいれてあげる事ができて良かったな、、と思った。やっぱり、1月5日~9日まで帰省していた事は、無駄ではなかったなあ、と思った。

納棺式は、まさに、映画の『おくりびと』の世界だった。死化粧って、男性にとっても大切な事だなあ、、としみじみ感じた。

納棺式が終了し、また義弟夫婦に実家まで送ってもらって、私は実家へ。

ちょうど兄が来ていて、すき焼きをしていたので、私もお相伴にあずかった。

翌朝。14日の日曜日。実家での朝御飯。いつも通り、朝食に野菜スープを作った。そしてパンは、たむらパンのパンドカンパーニュ。土曜日の朝御飯に食べようと思って、冷凍庫から出して自然解凍していたものを、土曜日の朝は食べ損なったので、そのまま持って帰ってきていたのだ。そんなに固くないので、母も喜んで食べていた。

朝御飯のあと、義父のマンションへ。

ここで義父と買い物したりしたなあ、、なんて思い出しつつ。

旦那と義父のマンションで落ち合って、またいろいろ片付けとか、あと、お棺に一緒にいれてあげたいものを見たりした。

体調不良の旦那に、お昼ご飯何か買っていく?と聞いたら、お寿司、という事だったので。関西ならではの、鯖寿司と、鱧の押し寿司を買って行った。前日は、旦那はだいぶん体調悪そうだったんだけど、ちょっとマシになっていてホッとした。

マンションをある程度片付けて、少しゆっくり眠れるように、マンションから近いビジホに移動する事にした。荷物を一緒に持っていって、チェックインするのを確認してから私は実家に戻った。

実家では、母と一緒に鍋。鱈と、残っていた蟹の脚をいれて鍋にした。

ご飯は、母が圧力鍋で玄米を炊いてくれた。玄米ご飯、なかなか美味しかった。

15日月曜日。朝御飯はトーストと野菜スープ。それにみかん。

月曜日はお通夜だったけれど、お通夜まで時間があったので、母をデイサービスに送り出してからちょこちょこ用事をした。

シーツ等大物の洗濯なんかもしておいた。そして、また、母の銀行口座のお金の移動をササッと行ってきたり、2階の部屋の掃除等した。

お昼ご飯は、梅がゆと、母が冷凍庫にストックしている鮭フライと、サラダ。

その後、晩ご飯も温めれば良いように作ってから通夜に出かけた。

お通夜、告別式の会場は、家からバスで行ける駅から、一応徒歩でもいける距離ではあった。ただ、徒歩20分くらいかかる感じだったので、ちょっと荷物が多い時は大変かな、、という感じではあった。

お通夜、告別式とも、家族葬で、参列はうちの夫婦と義弟一家、それにごく親しい親戚だけにした。

ご住職は、ずっと義父が、義母の弔いをお願いしていたお寺のご住職で、義父の人となりをよくご存知だったし、先代からのおつきあいで、長いおつきあいだったから、お経をあげた後のお話も、心がこもっていて、なんだか胸にじーんときた。

ほぼ家族だけのお通夜だったので、通夜振る舞いも無しにした。本当だったら、葬儀場に泊ってあげたかったんだけど、旦那も体調不良だし、私も、他の家族も疲れているし、、という事で、通夜は誰も泊らず、帰らせていただいた。

22年前に義母が亡くなった時は、そもそも病院に私が泊まり込んだり、、って事もあったし。通夜の時も私は葬儀場に泊って、お線香番をしたりしたけれど、あの時は若くて体力もあったからなあ、、と思い出した。義父は、きっと許してくれるよね、、と。お通夜の会場から帰らせてもらった。

お通夜から戻って家で晩ご飯。母と、義父の思い出話などをした。義父とは、私の父の一周忌の時に、義父&旦那&母&私、という4人で有馬温泉に行ったんだけど。その時にいろんな話をしたのが懐かしいね、、と母は話していた。義父は有馬温泉が大好きだったんだよね。コロナ禍前まではよく一緒に有馬温泉に行ったのが懐かしい。それで、有馬グランドホテルでもらった小さいタオルを義父のお棺にいれてあげた。思い出いっぱいだなあ、、と。そんな事しみじみ思っていた。

義父が大好きだった、林万昌堂の甘栗も、お棺にいれてあげようと思って持ってきていたら、葬儀屋さんに、栗は、焼き場で爆発したりしたら大変だから、このままではいれられない、剥いたらいれられますけど、、と言われたので。晩ご飯のあと、ひとりでコツコツ甘栗の皮を剥いて、袋に入れ直した。きっと義父も喜んで食べてくれるよね。

16日火曜日。告別式の日。朝、早起きして、サッと朝御飯の支度をして、6時台のバスに乗って告別式の会場にむかった。

告別式は、9時半スタートの予定だったんだけど、早めに全員集合したので、告別式も9時過ぎにはスタートとなった。

今は、焼き場が混み合っていて、一週間待ち、なんて場所もあるらしい。土曜日の朝、義父が亡くなって、義弟夫婦が葬儀屋さんに連絡した時に、まず押さえてくれたのが火葬場の予約だった。それが16日火曜日の11時の枠だったので、それにあわせて告別式を行った。

そして精進上げの会食をして、義父の思い出を話した。

その後、お骨拾いをして、義父の他界を本当に実感した。そして、その後、義弟夫婦と一緒に、四十九日の祭壇を作り、そして、東京に戻る事にした。

帰る前に、新大阪駅の地下でだるまに入って、串カツを食べて帰ることにした。

献杯して。

串カツのセットをいただいた。

土曜日の朝、かなり具合の悪そうだった旦那が、大丈夫か心配だったけれど、無事になんとか義弟夫婦と協力して、父を見送る事ができた。

私は、無事にお別れができてちょっとホッとしたけれど。旦那は大きな喪失感を感じているんだろうな、、。

新大阪駅はいつもの通り混み合っていた。

そして、新幹線で無事に東京へ戻ってきた。義父を亡くした喪失感は大きいけれど、また日常が待っているね。